2012年7月30日

グスコーブドリの伝記

今日は宮沢賢治原作、ますむらひろしの漫画を基にした『グスコーブドリの伝記』を観に行ってきました。
公開してからずっと観たかったのですが、友達と観に行こうと突如思いたち、ようやく都合がついて観に行けました(最近忙しかったのです、僕が。まあみんな忙しいのですが)。
7月の頭に公開されて、7月終盤の今日すでに公開劇場も上映回数も少なくなっています。
朝っぱらは無理だったので、夕方の回を観ることに。新宿ピカデリーで観たのですが、上映回数は全2回。夕方の回、満席でした。いくら日曜日とはいえ、みんな『ダークナイト・ライジング』や『おおかみこどもの雨と雪』、あとナルトを観るから空いてると思ったんだけどなぁ。

せっかくのなので昼に集まって遊ぶことに。カラオケ行ったりゲーセン行ったりして遊びました。最近カラオケが好きなんですが、今日はあんまり高音でなかったなぁ。ゲーセンでメダルで遊んでいたら、ビンゴギャラクシーで2倍以上に膨らみました。ビンゴギャラクシーは一度やってみたいと思っていたゲームで、同じビンゴゲームのアニマロッタが好きなんですよ。

ますむらひろし漫画についてですが、後輩が持っていた『風の又三郎』を読ませてもらったぐらいで、全然読んだことがありません。ですが、登場人物が猫だし、すごい独特の雰囲気があるんですよね。
観終わったあとで思ったのですが、宮沢賢治らしいなぁということ。全然読んだことなくても、空気や味や雰囲気を感じました。
それに、観ている人の解釈にかなり委ねられてしまう点も。

とても賛否両論ある作品だと思います。調べてみたら以前にも一度映画化されているのですね。
友達は酷評でしたし、確かにストーリー的に微妙に失敗しているような感じを受ける場所が多々あるのですが、嫌いじゃないなぁ、この映画。
予告編や主題歌がすごく良いので、騙されたのかもしれませんが、結論としては宮沢賢治ワールドの中に入りたい気持ちを増幅させてくれます。



※以下、ネタバレを含みます。ご了承ください。


イーハトーブ=岩手県ではない。あくまでも理想郷で、別世界ですね。岩手をベースにしてはいても。
だから、ブドリたち家族が住んでいる山や、その麓の里はイーハトーブではない(と、僕は解釈する)。
ブドリがトラクターの荷台でクーボー博士の本を読んでいるときに、「イーハトーブの学校で教えてるんだ」とつぶやくシーンがあるので。

世界観としては、科学の発達がみられながらも、まだ迷信や民間伝承などによって世界の仕組みが構成されているような、いわゆる中世以前の過渡期ではなかろうか。火山の振動を感知するシステムが電気ウナギなのがちょっと面白い。
ブドリの父親ナドリは木こりをやっていて、木こりという職業についてまず考えなくてはならない。
学校へ行く途中に、木材を運んだり整理したりしている人(猫)たちがいるが、そういう材料となる木を調達してくる仕事だろう。そして、木を切り倒すには切り倒す木を選び、切り倒す場所を考え、次の木を植えたりしなくてはならないので、あの山一帯を保有しているのだろう。
木材の材料を売った金や、生活ぶりを見ると自給自足のようなので、森で採れる野菜や木の実などで生計を立てているのでしょう。

冷害については僕のうちの農家だからよくわかるけど、冬を越せるだけの作物が採れないとなると現代の生活とはまた違うので、「俺は山へ遊びに行ってくるぞ」と吹雪の中、山へ入っていってしまうのも仕方がないのかもしれない。
今調べてわかったことは、「遊ぶ」というのはわいわいきゃっきゃやることではなくて、狩りをするという意味もあるようだ。

ちなみにこの映画のシナリオはどうも原作とは少々異なるようだ。やっぱりね。そうなっちゃうよね。
それと、前身となった物語があるみたいで、その主人公があの人さらいであるとも考えられる(Wiki参考)。
解釈はいくつか分かれると思うけど、2つ考えられるかなぁ。

①人さらいがやってきたとき、ネリは餓死していた。ブドリはまだ生きている。
②ブドリもネリも同じく餓死。

どちらかだと思うんですよね。ただ、①の説のほうが自然だし有力かな。②の最初から死んでいたパターンは夢オチに近いものもあるので(これらの説はこの映画のシナリオによるものです。原作や1994年の映画とはまた別です)。

人さらい=世界裁判長のネネムなので、死者の世界を統括する、いわば死神としての存在だと思うんです。
後半の裁判のシーンで言う「お前は度々こちらの世界に侵入している。境界侵犯罪で裁かれなければならない」というのは、序盤の餓死寸前で生死の淵を彷徨ったということが言及されているのかもしれない。
「連れ去ったのではなく、迎え入れられた」というセリフからも、ネリ=死亡説が濃厚ですよね。

網掛けのシーンでは声が四方八方から聞こえてくるのでざわざわ感がすごく実体験的。そのため、夢のシーンとは思わずに観てしまう。自分の家がすっかり乗っ取られてしまっているというのは衝撃的だし面白い展開ですね。
蛾が飛び回るシーンでもサラウンドを駆使して羽ばたきの音があらゆる角度から聞こえてくる。以前のように虫が苦手だったらこのシーンは(たとえアニメだとしても)相当きつかったかもしれないが、今は虫は嫌いではないしむしろ好意的なので、光の中で蛾が飛び回る美しさに見とれてしまった。
でもこの網掛けワールドが死者の世界かどうかはわからない。みんな空を飛んでいるからという単純な理由で死者の世界と判断してもいいかもしれませんね。

イーハトーブ行きの電車に乗っている間に見た夢、あれも死者の世界でしょうね。「ばけもの世界」です。
体が透き通っているし、鳥居がたくさんある。搭のエレベーターに乗っていた人たちの中にブドリのお母さんがいると友達がチェックしてくれていました。ネリが芸者になっていたり。

話を広げすぎてすべて回収できていないのもまた事実。
一緒に学校に行っていた友達とか、先生とか、木材加工所のおっちゃんとかはどうなったのだろう。
それで、山から下りて急に赤ひげの仕事を手伝うことになって、とりあえずネリを捜すのは置いておいてということだろうか? 仕事の手伝いを何年もやっているように描かれていて、まあ、捜すための足を確保するためにもお金は必要だが……。ブドリもネリがあの世へと連れ去られた(=死んだ)と薄々わかっていたのではないだろうか。
でも現実を受け止めきれなくて、現に世界裁判長が登場して連れ去っているので、半信半疑の気持ちだったのかもしれない。それにどこか遠くへ行ってしまったのなら宛もないし、まずは情報収集が先だろうと。そういう説明的な部分は一切省かれている。

ブドリもネリもあまり表情に変化がないので、言葉と気持ちが一致しているのかいまいちよくわからないところがあるんですよね。

イーハトーブの街のデザインはすごく好きだけど、あの飛行船みたいな乗り物はなんだろうとか、街にはどんな店があって、どんなものが売っていて、どんな人が暮らしていて、どんな仕事をしているのかとか、そういう外観的な描写も一切なく、ふわーっと大学へ行ったかと思えば授業を受けて急に火山観測員に。
急展開なんですよね、どうにもこうにも、その辺り無理矢理感を受けてしまうのも無理はないのかもしれません。

火山の噴火を誘発させに行くシーンで世界裁判長が登場しますが、世界裁判長に裁判をかけられているシーンでは執拗にネリの返還要求をしていたのに対し、死の覚悟を決めた途端ネリのことすら訊かなくなる。
どうやって誘発させたのかもわからず、裁判長に連れ去られる=死者の世界に迎え入れられるということなので、ブドリはラストで死んだと考えるのがいいでしょう。
でもなぜ裁判長はブドリの「火山を噴火させたい」という願いを叶えたのでしょうか?
序盤の「この飢饉を救う」というのは命を奪って楽にさせるということなのでしょうが、終盤のブドリは自分の意志で死を決めていますよね。境界侵犯の罪人として裁かれていたはずなのに、なぜ急に手のひら返したようにブドリの望むままにしたのでしょうか。

わからない~と考えていたら主題歌が流れてエンディング。
「たくさんのブドリとネリの父親と母親が、たくさんのブドリとネリたちと一緒に暮らしていく」みたいなセリフはすごく好きで、このセリフに一番宮沢賢治らしさを感じてしまった。登場人物の名前を使った比喩表現ね。

自然の脅威や共存を描いた警鐘譚なのか、死者の世界とイーハトーブという理想郷の対比を描いたファンタジーなのか、結果的にはよくわからず、どろどろに混ざり合ったマグマが冷えて固まっていくような映画だと思った。
ブドリが死んだのかどうかわからずに終わるというのは好評価ですが、自己犠牲精神や、世界裁判長の思惑など腑に落ちない点がしこりとなって残ってしまうのも事実。
そして、観た人の数だけ解釈があるような気がします。

嫌いじゃないけど、好きでもない。
褒められもせず、苦にもされず、そういうものとして、この作品を評価したい。

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