2010年8月8日

水溜りのホップロック 08

テストが終わって、いよいよ公務員試験の勉強に本腰を入れなければならないのに、やる気が一切出てこない。
どうしたことでしょうか。ここでがんばらないと、ずっとがんばることのできない人間になってしまうかもしれないのに。

この作品ももうすぐ終わり。気づけば1万字近くになります。
文化祭の冊子と、あと、いろいろやろう。勉強も、音楽も、小説も。
いろいろやろう。




   08

 つまみあげられたサプリメント。足りない栄養素を補ってくれる体の潤滑油。わたしはエンの説明を鵜呑みにして、それを享受していた。
思い込み、
忘却、
一方的な幻想の信頼。


「確かにおれはスイリを騙していたことになる。でも、スイリだって自らすすんでやってたことだ。おれはスイリを騙したことになるが、スイリはおれに騙されたことにはならない。スイリは忘れてしまってるかもしれないが、おれたちは――」


 そうだ。


「実際にここで生活してた。学校からも、親からも、社会からも見離されたと思い込んで。でも本当はおれたちの方から逃げ出して――」


 そうだ、そうだ。


「おれがスイリに勧めたんじゃない。スイリは始めから――」


 そうだ、そうだ、そうだ――。


「おれとスイリがやってるのは種類が違って、スイリにだけ見えるものがある。スイリはそのつもりがなくても、おれがスイリに栄養サプリと偽って与えていたんだ。その意味では、おれはスイリを騙していたことになる。……悪かった、ごめん」


「いいよ、わたしこそごめん。すっかり忘れてた。でも、思い出した」


「そうか……」


 でも、わたしは過去の行為を思い出しただけで、エンを許してはいなかった。わたしはもう、とうにやめようとしたのだ。お金もなかったし、体のあちこちにガタが来て、すっぱりやめようと思っていた。簡単に、やめられると思っていた。


 麻薬をやるのはもう、やめようと思っていたのだ。


 わたしは立ち上がり、エンの腕をぐいと掴むと、力を振り絞って柵にエンの体を押しつけた。柵はそんなに高くない。エンの肩ぐらいまでの高さだ。もともと古びたデパートだ。背の高い立派なフェンスなんかは、用意されてはいない。

「それでも、エンはわたしを裏切ったことには変わりない。わたしはエンを信じていたのに。同じ立場で、同じ境遇で、同じ世界に生きていると思っていたのに。……エンはわたしを、ペットにしていただけだったんだ」

「それは、違う」

「ウソ! わたしは食べ物も飲み物も一人では取りに行けないから、取りにいけるエンを頼って、ここで二人でなんとかやっていこうと思ってた。でもエンはわたしがいなくても生きていける。わたしがいなくても、水に沈んだ街を平気で歩けるんだから!」

「それは、スイリだって……」

 がしゃん!

 わたしはエンを柵に叩きつけた。叩きつけたけれど、大した力はかからなかった。

「……」

 言葉が出なかった。涙も出なかった。悲しいのか、憎いのか、まるで感情の説明がつかない。

 がしゃん!

 がしゃん!

 わたしは何度もエンを柵に叩きつけた。エンは黙ってわたしの攻撃を受け続けている。エンはやっぱりどこか後ろめたそうな、罪悪感を抱いているような、そんな微妙な表情をしていた。


 ばきん!


 何かが壊れるような音がした。エンの体と、エンの体を支えていた柵が傾く。

「すまなかった、スイリ。確かにおれはお前をペットのように扱っていたのかもしれない。かわいくて、見捨てられなくて、結局スイリの心を殺してしまったのかもしれない。それでも、おれはお前が好きだったんだ」

 世界がスローモーションのようにゆっくりと動く。雲も、水面も、虚空へと投げ出されていくエンの体も。

「それと最期に。おれの名前はエンじゃない。マドカだ。漢字は同じだけど、読みが違うんだ。じゃあな、翠璃。元気で」


 ばっしゃーん!


 エンが水に落ちると、
巨大な水しぶきがあがり、
世界のスローモーションが終わって、
今度はミュートがかかったかのように、
静かで、
空虚で、
世界にわたしだけが存在しているかのように、
水底の人影もやたらと希薄で、
空を駆ける鳥や飛行機もなく、
セミも鳴かない夏の午後、
エンはいつまで経っても水面に浮かんではこなかった。


 エンは、マドカは、いつまでも、浮かんではこなかった。

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